第60回 JUONのあの人
庄田今朝一さん
庄田さんは、1952年に長野県更級郡共和村(現・長野市)に生まれた。りんご農家に生まれるも、工業高校を卒業後、約20年間、車のディーラーで働いた。整備工、工場長、営業を担当してきたが、父親が体調を崩してからは、実家の果樹栽培に本格的に取り組むようになる。いくつかの転職を経て、57歳で早期退職後、専業農家となった。現在は、りんごと桃の栽培のほか、りんごジュース、ドライフルーツなどの加工品も製造・販売する。また、長野市の平地では初めて許可を受けた農家民宿も営む。「りんごジャム、加工食品類はね、少し痛んでるところも入ってるんですが、俺はよく言うんです。農家の涙だって(笑)。」
庄田今朝一さん
庄田さんは、1952年に長野県更級郡共和村(現・長野市)に生まれた。りんご農家に生まれるも、工業高校を卒業後、約20年間、車のディーラーで働いた。整備工、工場長、営業を担当してきたが、父親が体調を崩してからは、実家の果樹栽培に本格的に取り組むようになる。いくつかの転職を経て、57歳で早期退職後、専業農家となった。現在は、りんごと桃の栽培のほか、りんごジュース、ドライフルーツなどの加工品も製造・販売する。また、長野市の平地では初めて許可を受けた農家民宿も営む。「りんごジャム、加工食品類はね、少し痛んでるところも入ってるんですが、俺はよく言うんです。農家の涙だって(笑)。」
2019年から、ラボランドくろひめと共催で始めた「北信りんごの里 田畑の楽校」。元々は長野県下高井郡山ノ内町での開催でしたが、コロナ禍を経て、21年からは長野市での開催となりました。その現在の受け入れをしていただいているのが、庄田果樹園の庄田今朝一さんです。妻のいづみさんとともに多角的な農業を続ける庄田さんに、お話を伺いました。
1人だと手が2つだし、2人だと手が4つだけど、10人いりゃあ20本も手がある。
「生まれも育ちも、こっから出たことないです。共和という名前は取れちゃったんですが。」
庄田さんが生まれた長野県更級郡共和村は、1954年に篠ノ井町と合併して町となり、59年には篠ノ井市、66年には大合併で長野市になった。
昔は養蚕が盛んだったが、化学繊維が普及するにつれ、徐々に養蚕業は停滞していく。作物は転換され、終戦前後くらいから、りんごなどの果樹生産が始まっていた。
「『おかいこさん』って、家のなかで蚕を飼って、家族は隅っこの方で小さくなって過ごして(笑)。その名残で、りんご畑の境みたいな感じで、桑の木が現存してますけど。」
子どもの頃は、遊ぶところも少なく、テレビも普及していなかったことから、両親に畑に連れていかれ、りんごの作業も手伝った。それ故、その大変さが分かっており、長男ではあったが、継ぐつもりはなかったそうだ。
「りんごを作れば作れるほど売れたっていうのは、昭和40年(65年)ぐらいがピークですかね。モータリゼーションが華やかになってきた頃にはもう、農家の跡継ぎがどんどんと外へ出て行った感じです。」
高校は、工業高校を選び、卒業後は、家から通える自動車関係の仕事に就いた。最初は整備工としてスタートし、工場長を経て、営業職となる。20年弱働いていた間に結婚もし、当然のように家のりんご作りも手伝っていた。本格的に栽培を行うようになったのは、父親が病気をした50歳前後の頃からだ。
その後、別の会社に転職していた庄田さんは、松本に転勤することになり、初めて実家を離れて、一人暮らしをすることになった。このこともきっかけとなり、57歳で早期退職し、専業農家となる。
「自分が中心にやるようになってからは、りんご畑を開放して。花を見たことない、実はどうついてるの?という人がいたんで、友達を呼んだり、キャンプのまねごとをしたり。そんな人はあんまりいなかったですね。」
妻のいづみさんが社交的で、世話好きなこともあり、段取りを担当。畑に来た人が自分でりんごを収穫して、購入するという取り組みも始めた。
なお、農林水産省が、創意工夫に基づき経営の改善を進めようとする農家を支援する「認定農業者制度」の認定も受けている。また、長野県の「エコファーマー制度」の認定も受けて、10年近く経った。
「うちは土壌微生物を使って、除草剤してないんで、ミミズなんか結構いますね。畑も柔らかいですし。草刈りは大変で、苦労はしてます(笑)。」
いとこから土壌微生物の利用を勧められ、10年ほど使い続けてきた。仲間を少しずつ集め、勉強会も行ってきた。また、農薬も極力利用を控える。使わなければ、色づきは多少悪くなるが、味は美味しくなるという。
そして、2021年、ラボランドくろひめの道上忠之さん(JUONフィールドディレクター)から、「北信りんごの里 田畑の楽校」の受け入れの相談があった。その前に、同じ年のことなのだが、ラボランドが別の農家と実施していた「りんごの畑オーナープログラム」のりんごが、病気により収穫できないという問題が起こる。息子さんが、道上さんの元部下だったという縁で、急遽、代わりに収穫できる畑とりんごを庄田さんが提供した。
一方、19年から山ノ内町でスタートした田畑の楽校は、新型コロナウイルス感染症の影響で、20年、21年と中止。受け入れていただいていた坂口農園は、コロナ禍を経て、生産を縮小することを決め、田畑の楽校の実施が難しくなった。そこで、道上さんは田畑の楽校の受け入れを打診したのだ。
トントン拍子に話は進み、翌22年から受け入れがスタートした。
「分かってない人に教えるのはなかなか難しいんですが、最近は3〜4人くらいは常時来てくるようになって。そういう人達がリーダーになっていただいているもので、新規の人達が来ても、対応できるようにはなってきてますね。」
「本当は5〜6人くらいの人数の方が目は届きやすく安心なのだが、人手不足もあり、来てくれること自体はありがたいという。最後に、これからの期待を伺った。
「天気の急変が読めないもんで、雨が降っても身体を冷やさないように合羽とか、足元が大丈夫なように準備してほしいですね。作業は1時間ぐらいやってくると、だんだん分かってくるんで。1人だと手が2つだし、2人だと手が4つだけど、10人いりゃあ20本も手があるから。それなりに自分達も助かるんで、怪我のないようにやっていただければ。」
2023年6月10日「北信りんごの里 田畑の楽校」で作業説明をする庄田さん。
2022年6月4日「北信りんごの里 田畑の楽校」の参加者と一緒に記念撮影。前列隣は妻のいづみさん。
鹿住 貴之
JUON NETWORK 2024年 第130号
JUON NETWORK 2024年 第130号