▼ぶどうの丘 田畑の楽校
▼熊野の棚田 田畑の楽校
▼南伊勢のみかん 田畑の楽校
※会誌掲載原稿を元に2018年10月現在で記事を作成しているため、現状と異なる場合があります。
ぶどうの丘 田畑の楽校
2005年に始まった「巨峰の丘」山梨市牧丘町での「援農ボランティア養成講座」を08年から「ぶどうの丘 田畑の楽校」として開始しました。JUON初の「農」の取り組みとあって、「紆余曲折」「試行錯誤」でしたが今ではしっかりと定着しています。初めて参加者を一般募集した06年、連続4回の講座として行ない、申込みは8名のみでした。参加者をもっと増やそうと単発参加もOKにした07年は、5回のイベントに毎回約20名が集まりました。しかし、農家の方とのコミュニケーションが減ってしまったこと、取り組みの趣旨や農家の方の気持ちを伝えきれなかったことで、地元の皆さんの信頼を失うこともありました。
そこで、08年は4回連続参加に戻し、参加者の有志で誘いあってイベント以外の日もお手伝いにいく「有志活動」に力を入れるようになりました。メーリングリストで呼びかけ、事務局も率先して牧丘に通い、5〜7月の農繁期はほぼ毎週活動がありました。しかし、連続参加に戻したことで新規参加者は11名。有志活動への参加は3名、09年も継続して下さった方は2名でした。イベントは有志活動に参加するきっかけと割り切ろうということで、09年は単発参加を基本に、5〜7月にかけて4回行いました。新規参加者は42名、内10名の方が有志活動にも参加。スタッフ(05〜08年の参加者)も含め、有志活動の延べ日数は、08年の30日から56日に増えました。
1泊2日の単発イベント「ぶどうの丘 田畑の楽校」を入り口に、参加者を「休日は牧丘にいます」生活(=日常的に気軽に援農ができる生活)に誘う…というスタイルをさらに確かなものにしていきたいと思います。個性豊かな参加者の皆さん・牧丘の皆さんの人柄がこの取り組みの財産。合い言葉は「人生はチャレンジだ!」。
【 キーパーソン 】 澤登一治さん
森林とぶどうという活動の違いに戸惑いながらの活動を、根気よく一緒に続けて下さっているのが「澤登農園」の澤登一治さん。生まれ育ったのは茨城県・旧真壁町で、牧丘を訪れたのは19才の時。叔父さんが新しくできた牧丘の石の採掘場を任されることになり、その手伝いを頼まれたのです。26才、牧丘で結婚することを決めた一治さんは、石の仕事の傍ら、ぶどう作りにも携わるようになりました。
「巨峰というぶどうは、大粒で味がよくて非常に魅力があったんだけど、最初は一房に10個くらいしか粒ができなかったわけ。1キロの化粧箱に7房も8房も入ったんだから。今は一房半くらいで1キロになっちゃうけども。」「近くに、研究熱心で巨峰栽培の先駆者のおじいさんがいたの。雨が降って石の仕事ができない日は、勝沼にいる有名な先生のところなんかへ運転手を頼まれてね。そういう時、何もわからんからといって車の中にいたりしないで、一緒になって話しを聞く中で、自分が疑問に思ったことを直に質問できたりもして、幸運だったなぁ。」「この地域の老齢化と人手不足の解消のために、お手伝いに来てもらえるという中で、初めての人達に教えるリーダーを養成しておけばいいと思うわけ。俺の解釈としては、農家の通訳。農家の人がこうだって言った場合に意味合いが通じないことがあるじゃんか。」「手伝ってもらって、こちらがよかったって思うだけじゃダメ。それじゃあ続かないと思うの。自分も提供しないと。皆さんがやりにくかったり、できなかったりっていうことを。お互いに手伝ったり、手伝ってもらったりっていう関係になればいいじゃんな。」「自分の畑を持つ、それも地域のお手伝いになるんだ。ぶどうでも、野菜でも、そんなのお金を出せば買えると思うかもしれないけど、自分で作るとまた違うんだぞ。収穫時期に子どもや孫を連れて来て、『すごい、こんなの作れるの』みたいな。休みの日だけではできない部分はこちらで手伝って、そういう喜びを提供できたら、いいなぁと思うよ。」「この地域の老齢化と人手不足の解消のために、お手伝いに来てもらえるという中で、初めての人達に教えるリーダーを養成しておけばいいと思うわけ。俺の解釈としては、農家の通訳。農家の人がこうだって言った場合に意味合いが通じないことがあるじゃんか。」 「手伝ってもらって、こちらがよかったって思うだけじゃダメ。それじゃあ続かないと思うの。自分も提供しないと。皆さんがやりにくかったり、できなかったりっていうことを。お互いに手伝ったり、手伝ってもらったりっていう関係になればいいじゃんな。」「自分の畑を持つ、それも地域のお手伝いになるんだ。ぶどうでも、野菜でも、そんなのお金を出せば買えると思うかもしれないけど、自分で作るとまた違うんだぞ。収穫時期に子どもや孫を連れて来て、『すごい、こんなの作れるの』みたいな。休みの日だけではできない部分はこちらで手伝って、そういう喜びを提供できたら、いいなぁと思うよ。」
【 キーパーソン 】 木下浩一さん
「ぶどうの丘 田畑の楽校」の初期から活動に参加し、有志活動を含め足しげく山梨県山梨市牧丘町に通った末、ぶどう農家になるために牧丘に移り住んだのが木下浩一さんです。IT系の会社に入って20年くらい経った時に、社内のイントラネット掲示板に載っていたJUONの「援農ボランティア養成講座」の募集を見たことが、JUONに関わり始める最初のきっかけでした。
「お父さん(澤登一治さん)が、ボランティアにとって作業しやすい環境をつくってくれてありがたかった。お父さんはぶどう栽培にすごく熱心で、70を越えても新しいことに躊躇せずチャレンジしている姿は、自分にとっても刺激になる。ボランティアに対しても熱意があって、色々教えてくれるし、やらせてくれる。農家はなんでもかんでも自分でこなすっていうのがすごいと思ってて、いつかそうなれたら、男としてかっこいいな。」「ITの会社に30年近くいて、外で体を動かしてやる仕事がしたかった。通い始めてからぶどう農家って楽しそうだな、やってみたいな、とずっと思ってた。これからも今の仕事の延長じゃ嫌だなと。娘が社会人になって独立したのを機に、夫婦2人で第二の人生を歩みたいと思ったんだよね。まだ間に合うかな。」「(先に、ぶどう農家になるために山梨の他の地域に移住した)千葉さんには驚いたね。現実的なことを色々聞きに行ったよ。千葉さんの影響って大きいと思うんだよね。ぼんやり移住は考えていたけど、それを後押しされた感じはあるね。」「そんなに大きくするつもりはないけど、おいしいぶどうをたくさん作りたいな。それと、牧丘の巨峰を守りたい、というのがすごくあるね。他の品種もだんだん増えているけど、牧丘は、本当においしい牧丘ならではの巨峰ができる。牧丘っていうブランドを守りたい。」「今年移住したばかりで、まだまだ余裕がないけど、自分の畑をきちんと管理できるようになったら、ボランティアも受け入れたい。ぶどう畑で働く人手が欲しいからではなく、ぶどうを作る楽しさ、田舎の生活の楽しさや辛さを伝えたいから。」「もっと広くJUONで広報活動をしてもらって、より多くの人が参加できる環境をつくってほしい。新規就農者などとの横のネットワークも大切にしたいから、JUONの中で移住する人達が増えてくれたらうれしい。」
熊野の棚田 田畑の楽校
「熊野の棚田 田畑の楽校」の舞台は、世界遺産の熊野古道や那智の滝の近くに位置する、和歌山県那智勝浦町色川地区。新規定住者の受け入れに早くから取り組み、今では人口の4割がIターンという地域です。2009年のお試しツアーを経て、11年から年4回・2泊3日の「熊野の棚田 田畑の楽校」としてスタートしました。現地では、30年以上耕作放棄されていた棚田を復活させ、維持管理している「棚田を守ろう会」のお手伝いとして、田植え、草取り、稲刈り、しめ縄作りなどを体験させていただいています。棚田を守ろう会の皆さんには、作業指導から懇親会でのアツい語らいまで、いつもお世話になっています。
東京ヤングジュオン10期生の瀧岡寛子さんは、仕事で関わった途上国における都市と地方の格差問題は、日本でも深刻だと気づき関心を持ち始めます。その後、JUONの森林の楽校や「リーダー講座」を通して、ふるさとの活性化に貢献したいとの思いを強くし、勝浦町にUターンを決意しました。
色川のIターンの先駆者的存在、棚田を守ろう会・副代表の原和男さんは、よく「先人の知恵」という言葉を使います。限られた土地で、少しでも多くの食料を確保しようとした工夫の数々が、棚田の暮らしには詰まっているのです。なお、11年の台風12号では大きな被害を受けた色川。今でも爪痕が至る所に残っています。田畑の楽校では、その復旧作業も手伝わせていただきました。
12年、棚田に休憩小屋を作ろう!という話が持ち上がり、「小阪の学び舎プロジェクト」が始動しました。小阪とは、棚田がある集落の名前です。地元の材を使って、壁土作り、壁塗りなども職人に教わりながらの参加型イベントとし、13年の終わりに完成しました。実は、構想段階で、田畑の楽校の参加者がノートに書いた絵を基に、仕事柄製図が得意なリピーター参加者が図面に起こし、それが設計図の原案になったというエピソードも。今は作業時の休憩場所や宿泊所としても利用しています。
13年11月の回では、新たな試みとして「獣害対策体験ツアー」を実施。夜のツアーでは、獣害対策要員の方の案内で地域内を車で回り、畑に出てきた鹿など多くの動物を目撃しました。また、翌日昼のツアーでは猿追いを体験。通信機とレーダーで猿のいそうな方角を探し、花火で威嚇する方法を実践しました。これまでの田畑の楽校の作業でも、鹿や猪除けネットの設置をお手伝いしましたが、改めて獣害の深刻さを体感するツアーとなりました。
【 キーパーソン 】 原和男さん
「熊野の棚田 田畑の楽校」は、地元の「棚田を守ろう会」の活動に合わせて、年4回開催しています。05年に立ち上がったこの会の初代会長が、原和男さんです。色川で、半年ほど実習生として有機農業を学び、そのまま移住して独立したのが、26才の時です。高校を卒業し予備校に通い始めてから、アフリカの飢餓問題のポスターに衝撃を受けたのが、きっかけでした。
「ほんと激震やったね。うわぁ、こんな子らが片方でいるのに、何してるんやろな、と。そういう子らを何とか助けたいなと思ったんだよね。」「最初はね、自分で経験積んで青年海外協力隊に行こうと思ってたけど、いかに自分が非力か、何も知らないかっていうことを、つくづく感じて。まずは自分がしっかりと暮らせなあかんなぁと。」「旬の食べ物を、普通に誰もがきちんと食べられる社会になったらええなあと。だから、自分でまず耕して、その季節のものをちゃんと作る技術をまずは身につけたいなと思うて、土地探し始めたんやけどね。」「世間話しながら猛烈なスピードで、稲苗を植えていくんだよね。自分が食べるものを自分の力で、それこそ体に染み込んだような流れのなかでこなしていく。そういうことが、生きる、暮らすっていうことなんやなと思うて、人を助けるなんて考えてた不遜さをその時すごい感じて。まずはしっかり暮らそうかなっていうふうに思ったんや。」「耕しながらそこで暮らし続けるっていう人が一人でも増えていくことは、その地域をしっかり守っていく流れに確実につながる。だから、本当に人が暮らしたいと思う地域でないとだめやなあと思う。」「都市と農村という二極化を超えて、お互いの暮らしをよりよくし合う、もっとその暮らしのほんまの豊かさをお互い応援し合って見つけていく。そうすれば、よりよい社会になる。JUONとの取り組みは、そういう運動ちゃうかなという気がするんだ。」